悲運の成東 1点に泣く
 

Back

 『銚子商の厚い壁 4年連続道阻む』

昭和46年初冬、すっかり暗くなった道路の端に、トラックのライトで「成東 鈴木孝政」という縦書きの黄色い文字が浮かびあがった。よく見れば文字は紺色のウインドブレーカーの背中に書かれ、体格の良い青年が走っている。トラックの運転手は、窓を開け、「ガンバレー鈴木ー!」と声をかけて走り去った。

この少年こそ、後に中日ドラゴンズのエースとなる成東の2年生、鈴木孝政である。野球部監督の松戸健が「いい投手になりたかったら走れ、そう思わなかったら走らなくていいよ」と助言したのを生真面目に実行。成東から家のある蓮沼村まで16kmを1時間半かけてランニングし足腰を鍛えた。
背中の文字は、交通事故防止のために松戸が夜光塗料で書いた。
ぎごちないフォームで「ロボット」というあだ名を松戸からちょうだいした鈴木だが、球は速いしコントロールも良かった。
その年の夏は県大会、東関東大会を通して鈴木自身1点も取られないのに甲子園への切符を手に出来なかった。肝心な時に怪我で登板出来ず、甲子園にはもう一方の千葉県代表で、成東の宿敵銚子商が出場した。

銚子商の斉藤一之(当時は部長)が「鈴木の怪我さえなかったら成東は間違いなく甲子園に行った」と惜しむ程だった。「今度こそ、孝政で勝たなければ....そうでないとオレは甲子園と一生無縁で終わってしまうかも知れない」松戸のつぶやきは日増しに大きくなり、やがて昭和47年の夏がやって来る.....。鈴木の速球はさらに磨きがかかっていた。剛速球にカーブを織り混ぜれば楽に勝てるが、松戸はあえて、速球1本で勝負させた。マシンのない時代だったから、速球投手を打ち込む訓練はそう簡単には、出来ない。速球がすべてを決めた。1試合に投げるカーブは数球しか無かった。

順当に勝ち上がった成東は、東関東大会の代表決定戦を宿敵・銚子商と争う。
7月26日。千葉市天台の県営球場は始まって以来という観衆3万人。
札止めになっても、この1戦を見ようというファンが後から押しかけ、球場入り口のシャッターが壊されてしまったほど人気を集めた。
銚子商は後に大洋、西武で大活躍する根本隆がマウンドに立ち、初回から息詰まる投手戦を展開する。
しかし、8回裏1死、打者根本は2−1と追い込まれてからウェスト気味のストレートを大根切りで左中間深く弾き返した.... 3塁打、絶好のスクイズチャンスが到来。次打者のカウントは1−2、松戸が指導してきた通り、鈴木は4球目に内角高めの速球を投げた。その球をバントしても90%小フライになった球である。コツンと小さな音をたてた白球はポンと上がった。「しめた」と思った瞬間、松戸は天を仰ぐ。3塁走者の根本の足は一瞬止まった。が、鈴木の足はこおりついたように止まっていた。打球は鈴木の右にポトリと落ちた。根本が両手を挙げてホームインするのが見えた。

房総球史に残る名試合は、0−1で終わった.....。
鈴木で敗れた松戸は、胸に渦巻いていた想像どおり、甲子園とは無縁のまま昭和50年に監督生活を終える。銚子商との戦いは47年から50年まで4年連続。しかも、いずれも1点差で松戸が敗れている。

斉藤と同じ昭和37年に高校野球の監督になった松戸は、斉藤に猛烈なライバル意識を持っていた。 が、球場を一歩離れれば無二の親友だった。
平成元年、あの成東が宿願の甲子園出場を果たし、応援から帰った松戸は病でふせっていた斉藤を見舞った。「またヘラブナつりに行こうよ」と言ったのが最期になった。